AIR-J'史

映画と映画祭と映画館と演劇とじゃがりこと旅行とライブが好きな札幌生まれのAIR-J'の記録

セックスの話をするのは苦手だ

ここ最近性風俗の記事を2つ書いておきながら何言ってんだこいつ的な発言だと思われても仕方ないが、セックスの話、ここでは広義に於いての「性的な話」のことだが、あまり口にするのは好きではない。

じゃあ嫌いかといえば嫌いでもなくて、性について興味がないかといえばそうでもなくてむしろ好奇心旺盛なのだが、なんだろう、上手いことを言えないがとても複雑な感じである。

分かりやすいシチュエーションで言えば盛った男子どもが集まった途端に女性にすれ違うたびに「あの子可愛かった!俺タイプ!」「胸でかくてエロかったよね」というのをしきりに話す、あの感じが好きじゃなかった。
僕は普通にみんなでワイワイ遊んでいるときにこういう話題が占めてしまうのがものすごく嫌でたまらない。

ではこれがゲイの人たちが集まったらそういうことがないかといえばそうでなくて、今度は男性とすれ違うたびに「あの子イケメン!俺タイプ!」「ちんこでかそう」というのをしきりに話す…ということになり、彼らの話を聞いて作り笑いをしながらも辟易としてしまったことはよくあった。

確かにすれ違いざまに男女関係なくいいなと思うことはあれど、あんま口に出すことは好まないし、ワイワイ遊んでいるときにそんな周りにあまり目を向けていなくて、「え、どの人のことを話してたの?」ってのが多々あった。


幼い頃から大学生まで、キリスト教の熱心な信者であった亡き母に連れられて教会に通っていた。
しかし、小学生低学年の時期にその母に悪魔のKISSというドラマを見せられてセックスというものを教えられてしまったので、性の目覚めはかなり早いほうであった。
性教育が早いからといって、性に対しては厳格、いやむしろ呪詛のようにセックスに対しての嫌悪感を吐き続けていた母の元にずっといたので好奇心と罪悪感を同時に抱えたまま育ってしまった。そのためか今の僕の性格や倫理観がやや歪んでしまっているような気がしている。
大学生の頃に読んだ村上春樹ノルウェイの森のアンニュイさが理想となってる部分もある。性を軽々しく口にはしないが、様々な女性と関係を持つ。だからといって性欲に溺れるわけでもない、という。

家庭に問題がなかった…といえば嘘になるが環境としては不自由ではなかったからこそ退廃的な暮らしに憧れた。
暴力的なことが嫌いだからこそ、暴力的・退廃的な性をフィクションに求めた。
太宰治花村萬月石田衣良江國香織
園子温ラース・フォン・トリアーキム・ギドク

フィクションへの興味は、やがてリアルにも求めるようになる。
しかしながら、ベースにあるキリスト教的罪の意識というものはいつも邪魔してきて、本気の暴力的なものや退廃的なものにはなり得たことがない。
そんな行き来を繰り返して、やめることなく、今に至る。


先日、太宰治『駆け込み訴え』をベースとした演劇を観て、その後小説の『駆け込み訴え』も実際読み、そして更にそのベースとなっている聖書を先ほど本棚から引っ張り出した。
ページをめくると、大学生の頃に同じ大学生であってキリスト教信者の人たちとの集まりの際に書いたであろう書き込みがいくつもあった。

あの時、熱心で、同世代の大学生の信者たちと話していて、これから不真面目に生きてみたいと思ってたからか、自分のことを話した途端にあまり泣かない自分が急に泣き出してしまったことを思い出してしまった。
あの頃の自分は、今の僕をどう思うのだろう。